『わたしは、それでも……楽しかった時も覚えているから』 渋い〜

 以前にもちらっと書いたけど(7/29の日記)、改めてふつふつと書く気が沸き起こってきたので、秋田禎信『我が聖域に開け扉(上)(下)』の感想。魔術士オーフェンシリーズに関する基礎知識がない方は置いてけぼりでしょうがご容赦を。
 さて、ずっと伏線引っ張ってきたドラゴン種族の聖域にオーフェンを始めチャイルドマン教室のほぼフルメンバー、王都の魔人プルートー、懐かしのマリア・フウォン教師、といった錚々たる顔触れが集結──というだけでシリーズのファンにはどきどきものだと思うのです。思うのですが、これが何故だか盛り上がらない。
 オーフェンは数多の死地を越えて完璧超人になってるし、アザリーは精神体になって『感情が磨り減ってきてる』し、コルゴンは本当に何考えてるか判らないし、レティシャは人生に疲れてるし、フォルテは意識不明だし、コミクロンはもう死んでるし……。人間味があるのは唯一ハーティアくらいか。そのハーティアにしても、色々と諦めている部分はあるし。
 シリーズ第一巻『我が呼び声に応えよ獣』でオーフェンとハーティアが再会したときにはまだ「今さら再会しても僕たち昔のような屈託ない関係には戻れないのよ〜」という切なさが発散されていたものですが、今回の再会に際してはオーフェンさんが既に鉄の心臓を装着済みな上、ハーティアさんも期待していないので、非常に素っ気ないものとなりました。レティシャさんにしても同様。盛り上がれる筈もないのです。
 ただ、作者のこの作品を通しての哲学(哲学ですって、うひゃあ)は最後まで一本筋を通して結実したと思います。クライマックスにおけるマジクのあの行動(名言は避けますが、下巻最高の名シーン)に対してオーフェンの言う「まあ……お前も魔術士らしくなってきたってことかな」に露骨に表れている感じです。
 そう考えてみると、オーフェンVSプルートーの大陸最強魔術士対決、及びジャック・フリズビーとの決着の両方において全く魔術が使われなかったことや、『人の手で魔術を越えた兵器』施条銃の登場など、象徴的な意味合いを帯びているように思えます。魔術の技能的価値は相対的にどんどん下がって行く。魔術の無力さに絶望するマジク。しかしだからこそ、魔術士らしさ、という精神的価値に勝負の下駄は預けられた──。
 と、書いてるとわりと面白そうで、僕自身あれ、面白かったんじゃないかな、という気にさえなってくるのですが、読んでみるとやはりあまり楽しくはないのです。
 もちっとエンタテイメントを意識して書いてくれればなあ……。これ、富士見ファンタジア文庫だぞ? 
 というわけで、やはり評価:【B】【心】に落ち着くのです。