『伝奇集』おぼえがき。

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

 普段あまり読まない類いのものに手をつけてみようキャンペーンということでホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』を読み始めたのは一ヶ月ほど前のことであったが、始めは今一つピンと来なかった話も、繰り返し読むうちにジワジワと面白くなってきた。短い中に観念の鍵のような文章を散りばめて、「さあ、好きにイメージすれ!」というデザイン、と言ったら良いだろうか。何度目かに突然「あ、わかった」「あ、繋がった」という電流が走る瞬間があり、それが心地良い。一作品10〜20ページ程度なのでやたらと再読性が高いし。プロローグに《厖大な書物を物すること、数分間で語りつくせるひとつの着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気のさたである》とあるが、清涼院流水ボルヘス先生の遺骨でも飲めば良いと思う*1
 評価:【B+】【心】
 
 以下、ほとんど自分用のメモ。
 ◆『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』
 ある特定の百科事典にのみ記載されている架空の国・ウクバール、そしてその一地方であるトレーンを巡るお話。
 少ない資料から推察される、トレーンにおける特殊な(しかし一貫性のある)科学、哲学――例えばトレーンの住人は生まれながらに唯心論者であるとか、言語に名詞が存在しないとか――に関する説明が長々となされる。
 しかしいくら厳密な説明がなされようとも、飽くまでトレーンは架空の世界だ。ある学者たちの秘密結社(薔薇十字団?)によって創られた壮大な『設定』、大掛かりなイタズラにすぎない。――と思いきや、終盤、世界はトレーンに置き換わり始めてしまう。なぜか? 以下引用。

(前略)現実は、われわれが究極的には認識しえない神の法則――換言すれば、非人間的な法則――にしたがっている。トレーンは迷路かもしれない。だが、それは人間たちによって工夫された迷路、人間たちによって解かれるよう定められた迷路なのだ。

 訳のわからない神の法則に従った今の世界の法則よりも、難解でも、人間の手で創られた、秩序ある設定の方が優先された。だから世界はトレーンに変化する。
 書物と現実のフィードバック、のイメージだろうか?
 ◆『『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール』
 小説家ピエール・メナールの最後の仕事に関する解説、の体裁を取る小説。
 メナールさんは『ドン・キホーテ』を書こうとする。パロディを書くとか、現代風にアレンジするとかいうのではなく、一言一句セルバンテスの原典と同じものを書こうとする! のである(機械的に複写する、のでもない)。
 メナールさんは最初、セルバンテスになり切ること(スペイン語をマスターすること、セルバンテスの知らない歴史を忘れること、等)でその仕事を達成しようとするが、「簡単すぎる」のでそのアプローチを捨てる。メナールさん、萌えキャラだ。最終的に、メナールさんはメナールさんの自己を持ったまま、『ドン・キホーテ』のいくつかの部分を、一言一句全く同じに書くことに成功する――そして解説者は、全く同じ二つの文章を比較し、これらは全く違う作品だ、判断するのである。
 つまり全く同一のテキストでも、書いた人間の時代背景、思想が違えば全く別の作品になる、ということだろう。この結論はあまり好きではないのだが*2、しかし真実ではあるだろう。
 ◆バビロンのくじ
 おおっとわからん。さっぱりわからん。面白い気もするのだが。
 世界に満ち満ちている偶然、それは謎組織のくじ引きによって決定されてきたのだ! なんちゃって! というボルヘス先生の一本背負い
 以下、続いたり続かなかったり。

*1:言いがかりである。流水先生から狂気を取り上げるなんてそれこそ狂気の沙汰だ。

*2:作者の思惑なんかを知ることで、新たに価値を発見する。それは良いことだとは思うのだが、しかし、それを評価の前提に置くのは、あまりフェアじゃないような気がするのだ。「あれは作者もわかってやってるから……」で何もかも許されるのか? 思惑なんて誰が解説つけてくれるんだ? ああん? とか。