マムシを倒す100の方法 / 今週のテニスの王子様(Genius 357 『直線と曲線』)
同モーションから直球と曲球を打ち分けられる無敵スネイク・海堂先輩を倒すための100の方法。
- 心を読む。(桃城)
- 運命を読む。(千歳、手塚)
- 引き寄せる。(手塚)
- 弾く。(手塚)
- 光の速さで追いつく。(真田)
- データを取る。(乾、柳)
- 結界をつくる。(不二)
- 死角に打つ。(跡部)
- 精神を乱す。(金色小春)
- 吹き飛ばす。(石田銀)
- より危険に吹き飛ばす。(金太郎)
- 轢く。(亜久津)
- etc.
◆ ◇ ◆
とはいえ、許斐先生が無敵と言うからには無敵なんだろうなあ、という妙な納得というか、経験に裏打ちされた予感めいたものも存在している。我々が予め認識している強い/弱いなど、実地においては容易にひっくり返され得る、ということは先の手塚VS真田戦で学んだはずだ。試合前、誰が手塚の敗北を予想し得たというのかね? 正直、苦戦するところさえ想像の埒外だった、という読者が大多数ではないか? このことを鑑みれば、例えば来週あたり、「ジャイロ回転はあらゆる回転の中でも最強の回転」「あれは手塚ゾーンでも引き寄せられん」とかそんなことを言い出しても全くおかしくはないわけですよ。読者がなんとなく持っている、キャラの“格”的に誰々じゃ何某に及ぶまい、というような判断がテニスではもはや通用しない。革命返しをやり過ぎたトランプの大富豪のような有様で、カードの強弱がイメージがプレイヤー間でよれまくっている、そんな感じがありますね。
追記:
今(午前5時)気づいたんですけど、この強弱イメージのよれっていうのは、キャラの実力を測るうえで『戦闘能力』と『テニス力』をごっちゃにしてしまっていることに起因しているのかもしれません。戦闘能力から見ればそりゃあ海堂ごときが赤也に勝てるわけねーだろ、という話になりますが、しかしこの勝負は一応、今のところ、厳密に言えばまだテニスなので、いくらケンカが強かろうと曲がる球に反応できないことはありますよ、それとこれとは別問題ですから、という。
しかしこれを見た読者は「あんなにケンカの強い赤也にも返せない球を打つなんて、海堂、なんて強いんだ……!」と、戦闘能力でもマムシがデビルを上回ったように思えて勝手に意外性を感じてしまう。そういった構図ではないか。
この「戦闘能力とテニス力は別」という発想は、前回の手塚VS真田戦において、真田が最後まで無我らなかったことを見て思いついたものでもあります。無我った方が明らかに戦闘能力は上がっているように見えるんですが、皇帝・真田はこれを「格下の技をコピーしてもどうにもならん」と一蹴して使わないわけですよ*1。つまり皇帝レベルのプレイヤーになると、無我で戦闘能力は上がってもテニス力は上がらない。ならば使っても意味はない。
手塚があれだけ強そうに思えるのも、まあ技の無体さは当然ありますが、それ以上に百錬自得の極み使用時の戦闘能力上昇が作品中最高レベルだったからじゃないですかね。左腕一本に集中する燃えるような無我オーラ。しかしそれがそのままテニス力に結びつくかといえばまた別の話である。戦闘力では手塚がはるかに上回っていたが、ことテニス力においては真田の方が一枚上手であった、と。
当たり前のように戦闘能力という言葉を使って来ましたが、違和感があれば「読者に理屈抜きで強そうだと思わせる力」、要するにハッタリ力と言い換えても良いです。
*1:コミックスのおまけでそのような記述があった