「科学的に正しい差別」に対抗するのは科学の仕事ではない

 最近ちょいと話題になってたこの件について。

 Watson氏は、「アフリカの可能性について根本的に悲観的だ」、というのも、「われわれの社会政策は、彼らの知能がわれわれと同じだということに基づいている――だが、実験結果はすべて、それを肯定していない」からだと述べている。
 
 この「厄介な問題」は今後、扱いにくくなるだろう。Watson氏は誰もが同等であることを願っているが、「黒人の従業員を雇わざるをえない人々は、これが真実でないことに気づいている」と同等論を覆した。
 
 さらにWatson氏は、「黒人の中にも非常に才能のある人はたくさんいる」ので肌の色で差別すべきではないが、「低いレベルでうまくやれない場合は、昇進させない方がいい」と語っている。
 
 ──『DNAらせん構造の著名生物学者、「黒人は遺伝子的に劣る」と発言

 この博士の言説が真実がどうかは置いておいて*1、気にしておかなきゃならんのは、自然科学というものはいつでもこの手の「厄介な結論」を導き出す可能性を秘めている、ということだ。しかし、だからといって、「藪をつつかないようにしましょう」だの「科学はもっと空気嫁」だの言い出すのは良くない。それでは無知カルト*2になってしまう。
 考えるべきなのは、「藪から飛び出た厄介な事実」を思想なり社会システムなりに反映させていく上で、どういったバッファをかませて行くか、というところであろう。そしてこのことを考えるのは自然科学の範疇ではない。科学者はこの点に遠慮しなくて良い。
 今回の例に照らして言えば、黒人でも白人でもウォルスタ人でもいいのだが、特定の人種の持つ何らかの遺伝的性能が他の人種のそれの平均値に比べて劣っている*3、というのがたとえ事実であったとしても、「生得的な特性の差異に関わらず、機会は均等に与えられるべき」という思想を我々は既に選択しているわけだよね? 怯えることなど何もない。

*1:この文章だけでは判断つかんが、かなり眉唾だとは思う。「黒人の従業員を雇わざるをえない人々は、これが真実でないことに気づいている」って、それ既に遺伝子由来の問題から離れているのでは

*2:グレッグ・イーガン万物理論』に出てくるアンチ科学集団

*3:性能が優れている/劣っているという判断もその時点の社会システムに依存するので、一意に劣っていると判断することは恐ろしく難しそうだが