女子高生の擬似体験システム 〜『あずまんが大王』感想

 「先輩先輩先輩」
 「なんだいなんだいなんだい」
 「あずまんが大王を読んだのです」
 「え、あ、今? 今さら?」
 「ええ、今さらです。僕にとって二年や三年の遅れは遅れのうちに入りません」
 「さすがは鈴藤、発売日に店頭に並んだことのない男」
 「先輩はもう読んでるんですよね?」
 「ああうん。面白かったよ。鈴藤くんはどのキャラが好きだった?」
 「同時に言いましょう。せーの」

 『大阪』
 「……やりますね、先輩」
 「お前もな。もう僕が教えることなど何もない、ごほごほ」
 「お師匠様!」
 「まあそれはさておき」
 「さておかれた」
 「あずまんが大王は女子高生の擬似体験装置だと思うのですよ」
 「ほう」
 「お気付きの通り、この漫画には明確な主人公がおりません。視点人物がいないのです。読者はいわゆる『神の視点』で物語を、女子高生の平凡な日常を俯瞰していくわけですが、学園生活という極めて感情移入を容易にする舞台設定のせいでしょうか、いつしか僕らは自分自身がその場に参加しているかの如き錯覚を覚えていく。つまり、その時点で──良いですか、ありふれたことを言いますよ──読者が視点人物になっている、わけです」
 「実は読者が探偵だった!」
 「関係あるようなないような。いや、やっぱないや」
 「なるほどね、『神の視点』とは言うけれど、この神、めっちゃ接写してたわけだ」
 「振り向けばそこに神が。さて、『主役不在』の状態で感情移入に成功した読者というのは、物語内において恒久的な幸福を約束されたも同然です。先輩、作品内に明確な主人公が存在する一般的な物語において、読者の感情移入を妨げる最大の要因はなんだと思います?」
 「ああ、その話は予習済み。主人公キャラと読者の感情の乖離、だろう?(注)」 「そうです。読者は普通、主人公に感情移入して物語を読みますが、この移入には限界があります。読者と主人公は別人だからですね。その中で我々は考え方・感情などの共通点を頼りに少しでも多く移入しようと腐心するのですが、主役不在の物語では、そもそもその必要がなくなります。主人公=読者ですから、感情移入率は常に100%になるでしょう」
 「恒久幸福、仲良し女の子グループごっこね。男読者にとっては完全な未体験世界、怪物の描かれた地図領域ってわけだ。背景にあるのは『女の子の生活を覗き見したい』願望かな」
 「もう一歩踏み出して、『女の子になりたい』のかもしれませんよ。深くは言及しませんが。まあそういった願望を、圧倒的感情移入率で実現する装置。それが僕の見たあずまんが大王の姿です」
 評価:【B】【心】
 「蛇足ですが。『女の子の生活を覗き見したい願望』で思いつく別の作品がありませんか」
 「あ、やっぱり何かあるんだ。いやさっきから僕もみぞおちの辺りに引っかかりは感じてたんだけど……他にヒントは?」
 「ボラ・ミステリオサ」
 「あ、マリみて?」
 「作品を成立させる動機……いや違うな。男読者が好んで読む動機、だな。この観点では二作品は類似していますね。つまり、ちょっと目端の利く人間ならば、あずまんが大王の人気が出た時点でマリア様がみてるのブレイクは予想できたのかもしれません。そういう人に、私はなりたい」
 「時期重なってるから、どっちが先ってこともないかもだけどね」
 「ちなみに先輩、マリみてではどのキャラが好きですか?」
 「同時に言おう。せーの」
 『由乃さん』
 (注)
 Ein Besseres Morgen内『ギャルゲー主人公の感情移入困難性』参照。ここでは議論をギャルゲーに限定しているが、この問題は(程度は低くなるかもしれないが)物語一般においても通用するだろう。