理想家VS現実家問題、解決のモデルケース / TRIGUN MAXIMUM10・11巻

 一年も滞っていたトライガン・マキシマムの単行本がようやく発刊した。しかも10巻・11巻二冊同時。近くの本屋の初売りと共に購入、むさぼり読む。無印トライガンの3巻にて初登場、以降敵方のスパイで、ヴァッシュくんと意見対立して、でも根は凄い良い奴で、だけど寿命が短くて――という当代きっての死臭キャラとして話を引っ張りつづけて来たウルフウッドさんがついにお亡くなりになった。そうして物語は最終局面へ。
 さて以前、《白い巨塔とタクティクスオウガに見る『対立する親友』構造》という文章を書いた。白い巨塔の財前VS里見関係とタクティクスオウガのデニムVSヴァイス関係の共通性について述べたものであるが、トライガンにおけるヴァッシュVSウルフウッド関係もまさにこれに当て嵌まる。彼らは共通する理想を持ちながらもその実現方法に関して意見を対立させるわけだが、その対立の様式も、《理想家=とにかく目の前の人を救いたいんだあ》VS《現実家=大を生かすためには小を殺すことも必要なんだよう》、という大枠に当て嵌まる。近頃『Fate/stay night』なるTYPE-MOONのゲームをプレイしたのだが、これの主人公VSアーチャー関係でも同様の図式が用いられていた。主人公を理想家側に配置するとトライガンFate/stay nightになり、現実家側に配置すると白い巨塔、両方選べるようにしたのがタクティクスオウガ、と分類できるだろう。
 これらの対立関係の落としどころは物語によって様々であるが、トライガンでは一つの大変美しい決着を見ることができる。ウルフウッドはリヴィオという何としても救いたい個人と再会した時からヴァッシュの思想に感化され始め、その後の戦闘ではヴァッシュ仕込みの殺さず戦法を取る。その結果、リヴィオを救うことには成功したものの、リスクを踏んだことによる当然の結果として死亡する。殺さず戦法は常に自らの死亡率を上げる行為であり、ヴァッシュはこれまで運良く生き残ってきたものの、そのリスクは確かに存在している――ウルフウッドの死はそのことを体現している、と言えるだろう。小を救うことに拘ることは死の危険を高めることであり、死んでしまったらもう誰も救うことはできない。このことがここで改めて確認される。リヴィオという個人を助けて死ぬことは、生き延びてもっとたくさんの人を助ける道を捨てることであり、つまりウルフウッドは小を助けるために大を見殺しにした。そのように見える。
 が、話はこれで終わりではないのだ。ウルフウッドは死んだが、彼に救われたリヴィオがその意志を引き継ぐ。彼の戦い振りもまた、ウルフウッド仕込みの、つまりはヴァッシュ仕込みの『小を救う思想』に基づいたものである。このことは、ヴァッシュがこれまで助けてきた『小』の人たちが、リヴィオと同じように、それぞれ見えないところで同じく小を救っているかもしれない、そんな景観を想像させるのである。
 一見すれば、大を救うために小を殺すのは道理である。しかし、愚直に小を救う行為の積み重ねが、見えないところで大を救うことをも凌駕する成果を上げているかもしれないのだ。リヴィオの戦いはそれを象徴するものと言えるだろう。
 
 参考:指輪世界の第一日記内『大の虫と小の虫。』また、Ein Besseres Morgen内『公共という神話の生まれるところ

トライガン・マキシマム 10 (ヤングキングコミックス)

トライガン・マキシマム 10 (ヤングキングコミックス)

トライガン・マキシマム 11 (ヤングキングコミックス)

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