カンフーで人生を語るために 〜『カンフーハッスル』少しネタバレな感想〜

 遅ればせながら『カンフーハッスル』を観て参りました。
 相変わらずくどいギャグにしばしば置いてきぼりを食らいますが、そのことを差し引いても充分以上に面白いです。元正義の少年、現落ちぶれチンピラがヒーローリボーンな流れは鼻血が何リットルあっても足りませんし、カンフーアクションは一々格好良いですし。大家さんの夫が消力(シャオリー)使ってたのがタイムリーでしたね。そうか郭海皇はあんな風に飛んでたんだ。
 さて、チャウ・シンチー登場時の台詞「(サッカーは)もうやめた!」で否応なしに前作『少林サッカー』を思い出してしまうわけですが、そうしてみると前作に比べ今作がとても正統派な、一般的ハリウッドスタイルに近い物語形式に変化してきていることに気づかされます。ここでいうハリウッドスタイルの物語形式とは、
 1.戦争、犯罪、スポーツ、その他何でも良いので題材を用意して、
 2.その中で人生の普遍的なテーマを語る。
 とまあ身も蓋もなく言ってしまえばそのようなものです。『カンフーハッスル』において題材はカンフー、語られるテーマはダメ人間の成長になります。ここで重要なのは題材自体は実はわりとどうでも良くて、語られるテーマこそが本質である、ということです。この映画はそのことに非常に自覚的であり、だからこそ最後にチャウ・シンチーはお菓子屋さんになるわけです。「カンフー、菓子屋、医者、弁護士。何だっていいさ、もっと力強い生活をこの手に!」てなもんです。
 一方で前作『少林サッカー』は、題材はサッカー、語られるテーマはもの凄く局所的でとにかく少林拳、つまりカンフーの振興でした。だからこそ最後にチャウ・シンチーはボウリングに転向したわけです。「サッカー、ボウリング、何だっていいさ、とにかくカンフーに市民権を!」。
 この二作はラストシーンも対照的で、『少林』が幻想的な、革命された世界を描いたのに対し、『カンフー』はあくまで現実的、強く言えば少々説教的なオチであると言って言えないことはない感じです(ネガティブな意味ではなく)。
 だからどちらが良いという話ではありませんが、ただ『少林サッカー』→『カンフーハッスル』の流れが必然であった、ということは言えそうです。先ほど、ハリウッドスタイルの物語形式について、題材は何でも良いと言いましたが、それでも広く受け入れられる作品を創るには、広く受け入れられる題材を使うのに越したことはありません。その点、三年前の時点では、カンフーを題材にして普遍的なテーマを語るのには(メジャー志向の作品を撮る上で)不安があったのでしょう。そこで選ばれた題材が世界的メジャー競技サッカーであり、作品の目的はとにかくカンフーというジャンルのメジャー化、今後カンフーそのものを題材に使えるようにするための土壌作りに絞られた、ということです。
 つまり、サッカーを通じてバカカンフー映画の普及に成功した*1チャウ・シンチーが、今度はカンフーを通じてより普遍的な人生のテーマを語った。この流れを思うと、なにやらチャウ・シンチー自身の成長物語を見ているようで、ただひたすらに感慨深いのです。
 
 評価:【A】

*1:少林サッカー』は少林拳使いのダメ人間たちがサッカーというメジャー競技を利用して少林拳を普及させる物語ですが、これは一段メタに階段を登れば、カンフー映画好きのダメ人間(チャウ・シンチー)がサッカーというメジャー競技を利用してカンフー映画を普及させる現実の物語とみなすこともできます。その上であの幻想的なラストシーンを観ると、うん、少し泣けてくるぞ。