イーガン先生の優しい未来予想図

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

 グレッグ・イーガンディアスポラ』読了。
 今最も先端を行くSF作家の、(日本語訳されてる中では)最も新しい長編である。理系としてのプライドなど物理化学の単位と一緒にとっくの昔に放り捨ててきたリンドウくんですから、難しい理論部分は当然のごとく読み飛ばし。特に第三部、ブランカさんによる《コズチ理論》の解説及び発展はさっぱりでした。「十二次元トーラスを標準ファイバーにすれば、すべては解決するのだ」とか言われてもわかりませんよ先生。飛ばす飛ばす。読む。飛ばす。
 そんな風に実にいい加減に読んだ僕ですが、それでも十分に楽しめてしまいました。各種SF設定の数々、その中でも物語の根幹を支える《ポリス》市民たちの静謐な生き様が魅力的にすぎる。三十世紀はニートの楽園、それがイーガン先生の未来予想図。僕もポリスに住みたい。《移入ナノウェア》がここにあれば迷わず使うね。

 ◆ポリス市民とは?
 ポリスと呼ばれる仮想現実都市で暮らす、肉体を持たない者たち。彼らは厳密に言えば《意識を持つソフトウェア》であるが、それこそが三十世紀における最もポピュラーな生き方。寿命なんてない、食うために働く必要なんてもちろんない。それゆえ市民は大体みんな研究者か芸術家、どちらかである。さもありなん。
 ポリス市民は主観時間の相対的速度を自在にコントロールできる。通常は最高速度である、現実世界の八百倍(《精神と時の部屋》でさえ三百六十五倍だったのに……)に設定されているが、これを逆に遅くして、究極的には停止して、「じゃあ五百年ほど冬眠してみっか」なんてこともできる。
 ほぼ永遠の命と主観時間の調整、この二つがあるために、ポリス市民の時間感覚は基本的に馬鹿。二万七千年後に地球にぶつかる可能性のある小惑星とかが検討すべき身近な脅威になりえる。壮大。

 その他、イーガン先生お得意のアイデンティティ関連のくすぐりもいくつか。主人公・ヤチマとその友人・イノシロウ(両者共にポリス生まれ)が、ロボットの身体に入って現実世界を体験しに行くエピソードなんか良い。現実世界での暮らしに感化され、「俺はこのままここで暮らすぜー」などと言い出したイノシロウを前に、別に彼のスナップショット(精神のコピーみたいなものだ)持ってるからいっか、と一瞬思うものの、すぐさまそれを破棄するヤチマたん。しみじみしますね。また、ポリスを住人ごと千個コピーして、宇宙の千の方角に向けて飛ばす(人類以外の知的生命体を探すため)なんてのも豪快で楽しい。
 そして最後、描かれるのはヤチマの歩む冗談のようなスケールの旅路。ここに来て、大森望も引用している冒頭の名文が思い返される。

 孤児はみな、未踏査領域のマップ化に送りだされる探検家だった。
 そして孤児はみな、本人自体が未踏査領域でもあった。

 ここで言う未踏査領域というのは、ポリス内でまだ振る舞いのわかっていない精神形質とか、そんなようなものなのだけど、これは宇宙、あるいは知識・真理、そんなものに置き換えても意味が通る。永遠の生を手に入れて、あらゆる危機と無縁になったとしても、探索の欲求だけは残る。なにやら永遠を垣間見たような気になれる、良い読後感です。
 
 評価:【A】【心】