世界って言えない / 『邪魅の雫』600ページまで読了

邪魅の雫 (講談社ノベルス)

邪魅の雫 (講談社ノベルス)

「そうか…… 今 世界中 あいつの敵なのか……」
「えらく狭い世界を思い描いたろ」
  ──ウエダハジメフリクリ(2)』より

 そう、世界って言えないんです僕。うっかり使いそうになっても、世間とか、社会とか、はたまたこの世とか、そのあたりのワードでなんとか言い換えようとしてしまう。『この世』なんて『世界』と何が違うのか自分でもさっぱりわからないけど、とにかくできるだけ使わない。そういう禁則処理が出来上がっている*1
 これはあれですね。十代中盤でエヴァンゲリオンを経験し、その後のいわゆる『セカイ系』作品群の隆盛、そしてそれに対する批判、なんていう状況を横目で見ながら青年期を過ごした者にはある程度共通でかかってる呪いなんじゃないのって想像しますね。とある大学の文芸系サークルでこのようなやり取りがあったと聞きます。「やーいセカイ系」「セカイ系って言う奴がセカイ系なんだぞ!」。これは『セカイ系の意味するところが今一つ掴めないまま取りあえず忌避するさま』を揶揄した自己言及的ショートコントなのですが、このようによくわからないままセカイ系を忌避するうちに、よくわからないまま世界という言葉も一緒に忌避されるようになったものと思われます。なんとなく恥ずかしい。まあ使われすぎて軽くなった、ということは言えるでしょうが。
 でも、これって良くない態度だと思うのです。世界・世間・社会は正確に見ていけばまるで意味が違う。粗い話をしている間は良いけれど、細かく踏み込んで行くならば使い分けは必要になる。いつまでもごまかしてはいられない。
 で、『邪魅の雫』なんですが。この小説、やたらと『世界』のワードが出てくるんですけど、同時に『世間』『社会』も頻出します。これらの差異をいちいち確認しながら進んでくれる。そして何より、セカイ系的なものに対する京極堂の言及もある。
 まだ途中なのでわかりません。わかりませんが、もしかしたら──もしかしたら、この作品で、僕の世界って言えない呪いが解けるのではないか。ずっとそんな予感がしています。先が楽しみでなりません。

*1:例外はある。たとえば冗談でなら言える。