秋田禎信『我が聖都を濡らせ血涙』読了 / オーフェン再読(08)

 序盤の山場・教会総本山(キムラック)編突入の八巻め。やあ、キムラックはこう、絵が良いですね。いや、挿絵が良いって意味ではなく……って挿絵は挿絵で良い味出してるんですが、そうでなくって、キムラックという舞台設定自体が絵的に雰囲気イーイーじゃんかよぉ〜って話でね。そこは大陸の北の果ての果て。雨がほとんど降らず、かわりに黄塵が舞い振る宗教都市。白を基調とした神殿街も、やまない黄塵で等しく変色し掠れている……。なんとなく、キリコの絵っぽいイメージを浮かべて読んでます。やっぱり舞台設定って大事ですね。キムラックが高温多湿の街であったら、同じことをやってても全然違った印象なるんだろうなあ。
 導入がすごく良い。戦闘訓練をねだるマジク、に対して珍しく強めの説教をするオーフェン。気落ちするマジクに対し、これまた珍しく気を使うクリーオウ。「まさかあんた、剣には魂がこもってるとかいうクチじゃねえだろうな」合理主義と虚無主義に関して、死の教師・オレイルとの対話。

「……どうやって死んだとしても、なんのために死んだとしても、同じことだろ。いつ死ぬのだって同じさ。数日間、死ぬのが先になったところで意味がない。死んだら、それで終わりだ。それこそ、何年か前に死んでいたとしても、五十年後に老衰して死んでも、どうってほどの違いはない」
 淡々と、オーフェンは続けた。オレイルが、少し呆れ調子で口をはさむ。
「その若さで虚無主義かね?」
「違うさ。いつ死ぬのも同じなら──いつだって死には抗ってなきゃならないってことだ。なにに替えても、俺は死なないさ。今だって、これほど死ぬのを怖がってる。キムラックに行くなんざ、正気の沙汰じゃない」

「この怖さに、あいつが気づいたら、あいつに戦闘訓練を始めてやってもいいって、そう思ってるんだよ」

 英雄的に死ぬことに価値を見出す人間は、英雄的に殺すことにも価値を見出すだろう。今のマジクはまさにその位置にいる……という話なんだけど、この点に関しては、オーフェンとマジクは最後まですれ違ったままなんだよな。西部編ラストで、マジクはオーフェンの言っていることをなんとなく理解するんだけど、理解した上で、やっぱり従いはしなかった。というようなところが、真面目な話だよなあと思う。
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「それに、十四歳の俺を半殺しにしたのが誰だと思ってやがんだ。俺が先生にあれを言われた時は、転ばされた程度じゃすまなかったんだからな。なにか言おうとしても口が開かねえし──なんのこたぁない。あごの骨が折れてたんだけど。さすがに先生もやりすぎたと思ったらしくて、見舞いにバナナとメロン持ってきてくれたっけか」

 あと、この台詞はなんかすごい『オーフェン』(キャラクターの名前としてではなく作品名としての)だよなーと感じた。大陸最強の魔術士たるチャイルドマン先生が「死の意味とは」みたいなことを教えようとして訓練したら弟子がちょっと半死になったのでさすがにやりすぎたかなーと反省しつつバナナ持ってお見舞いにくる。『オーフェン』ってそういう世界だよね、と。
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 自分は八人の敵を倒した。オーフェンはひとりしか倒していない──遠目に、師のそばに誰かひとりだけ倒れているのが見える。
 彼は思いついて、声に出した。
「ぼくのほうがよくやったってことだ」

 そして始まる、マジク・ザ・増長ストーリー。どう考えてもろくでもない結末を招きそうな予感を発散させつつ、次巻へ。