『アンチ少年漫画としてのシャーマンキング』再び
- 作者: 武井宏之
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2005/01/05
- メディア: コミック
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あの作者のことだから、狙いすましたオチという可能性もあるのではないか、と初めは考えた。期待した。しかしそれも例のミカン(註1)によって粉砕されてしまう。6年連載して打ち切りなんてあり得たのか……。ここで打ち切るようならば、あのタルさMAXだったアメリカ横断編でなぜ生き残れたのだろうか。恐らく、当時はまだ “腐った女子と書いて” 腐女子人気があったのだろう。アニメ化とかしてたし。その点に関してはありがとう、 “腐った女子と書いて” 腐女子の人。しかしそれこそが、現在のシャーマンキングの窮状を招いたとも考えられるのだ。
あ、言い忘れていたけど、「シャーマンキングは傑作である」と僕が言った場合、このシャーマンキングとは連載3年め以降、シャーマンファイト本戦が始まった後を限定して指している。作品の方向性が定まったのがようやくその頃だからである。それ以前のものは全く違う作品と見なした方が良いだろう(註2)。ぶっちゃけ面白くないし。全くスロースターターにも程があるが、この遅れが致命的であった。健全にして善良な読者の皆々様は普通、3年もつまらない漫画を読み続けてはくれない。それなのに連載は続き、アニメ化も決定。健全にして善良な読者の皆々様はシャーマンキングをつまらねえくせに腐女子人気で持ってるカス作品と認定、見限ったことと思われる。その後シャーマンキングは長いサナギの時代を終え、ついに羽化するのだが(註3)、その頃にはもう誰も読んでくれていなかったのである。自業自得とはいえ、なんとも不幸な話ではないか。悲しい物語ではないか。
それ以来僕は、シャーマンキングに対して誰よりも理解のある読者でありたいと思うようになった(註4)。
これが判官贔屓に近い感情だということは自覚している。羽化した後のシャーマンキングは一般に全く理解されていないと言って良い。今時、「シャーマンキングは生命の扱いが軽すぎて緊張感がない」なんて批判がまかり通っているのだ。それってなんつーか、アイシールド21に対して「普通の高校生がマシンガン持ってるわけがない、リアリティがない」って批判するようなもんだぞ? うーん、あまり巧い喩えじゃないな。『匣の中の失楽』に対して「人間が描けていない」と言うようなもの、というのがしっくり来るんだけど、ミステリ読みじゃないと判らないしな。
話を戻す。もちろん、キャラ萌えで読むのも全然足りていない。シュールギャグ漫画として読んでもまだ遠い。
プリンセス・ハオ。
「何でもかんでも生き返らすのが決していいとは思わねぇけどな 」の自己言及型(メタ)台詞。
この二点を以って確信できた。武井宏之は最も自覚的に『アンチ少年漫画』を描こうとした漫画家である、と。(つづく)
(註1)
最後のページ、『おわり』の右横にあるミカン。
「ミカン、すなわち未完……つまりこれはシャーマンキングは未完であるという武井宏之の心の叫びなんだよ!」
『な、なんだってー!?』
ネット界隈はその説でもちきりである。
(註2)
なにせ人を生き返らせようとするファウストに対して葉くんが説教したりしている。
(註3)
恐山ル・ヴォワール編がその象徴。これぞ福本伸行言うところの「時間をかけない、瞬間的脱皮」という奴だ。と思う。
(註4)
そう、清涼院流水に対する大田克史のように。といっても判らんか、普通。