『盲人の観ている世界を映像で表現する』という矛盾……ッ!

「ここに一人の盲人がいたとしよう」
「はい」
「君はさる止むを得ない事情によりその盲人に近接戦闘を仕掛けねばならない。どう思うかね」
「やですよそんな。だって盲人ですよ。心眼ですよ。聖闘士は五感を失うことでセブンセンシズに目覚めるですよ。危険極まりない」
「おめでとう、君は生き残った。まさしくその通り、物語で盲人に出会ったら要注意だ。たとえ攻撃力は低くとも、ペトロクラウドの成功率が100%かもしれないし」
「本当にタクティクスオウガ好きですね、先輩」
「ともかく。ここでまた質問だが、この『盲人が強い』という命題。これはテーゼかアンチテーゼか」
「生まれはもちろんアンチテーゼでしょうな」
「然り。しかし現在、十二分な普遍性を獲得したこの命題は、既にアンチとしての用を成さず、無印のテーゼとなっている。文化の螺旋構造を示す、わかりやすい例と言えるだろう」
「お約束、と言い換えても良いですね。現実世界と比較すれば、『盲人が強い』のは嘘ですが、その点には目を瞑ることになっている。黒子みたいなもんですね。あ、ホクロじゃないですよ」
「それで、『座頭市』を観たんだって?」
「ええ、TVでやってたんで。北野武版ですよ、念のため」
「時代劇というのは、結構探偵小説に似ているのかもね。お約束に支えられてるところとか。まあ、詳しくないんで適当だけども」
「探偵小説の場合、お約束に偏執的なまでに毎回アンチを加えなくてはならない、という縛りもありますが。で、『座頭市』なんですが、これ多分、アンチ狙ってますね。いや、僕も適当言ってますけど」
「そのココロは」
「面白いことにこの話、全く情緒がないんですよ。座頭市と、ヤクザの用心棒であるところの浅野忠信の対決がお話の軸なんですが、この二人、最後まで互いの素性だとか背景だとかにさっぱり踏み込まない。最後まで、街でたまたますれ違った程度の間柄のまま、立会いに臨むのです。浅野・ザ・用心棒の方には一応、人情を発芽し得る設定*1が用意してあるにも関わらず」
「勧善懲悪でもないね。市はただただ殺人人形だし。しかもルールがわからない」
「ですねー。イカサマされたくらいで皆殺すなよと」
「そうそう。賭場の鏖殺シーンは良いね。市の視点(盲目なのに!)で逃げる胴元やら客やらをザックザク。画面に市は出てこない。モンスター映画だ」
「鏖殺といえば、扇屋での戦闘ですが、あれもちょっと気が利いてますね。強気で言わせてもらうと、あのシーン、『盲人の観ている世界を映像で表現する』という矛盾を成立させてるんじゃないか、と思うのです」
「ほう?」
「鍵になるのは障子と襖の使い方です。あの戦闘では、そういった遮蔽物を挟んで市と敵が向き合い、刺し合う状況が繰り返されます。ここでは市の視点と敵の視点が交互に使われますが、両者とも目に映るのは障子なり襖なりだけ。その状況下で、我らが市先生は敵の刀をひょいひょい躱しますが、敵は市先生の攻撃で一撃死。この絵面によって、普段の市先生の戦いっぷりが如何にとんでもない、人外の所業であるかを説明しているのです。これはちょっと、凄いです」
「ほう」
「他にも、随所に出てくるタップダンスも良い仕事してますね。クワを振りながらタップ。カンナかけながらタップ。市先生の世界には音しかないんだよー、と言う」
「匂いや触覚は映画じゃ無理だしな。そしてこういう、世界構築レベルの嘘――タップダンスとか、金髪*2とかは、もっと小さな嘘――ほんの一分足らずで二十人は斬れないだろうとか、刀で石灯籠真っ二つにするなよとか、そもそも現代人の体格・体型で江戸時代人てのは無理だろうとか、そういったものをごまかすのにも一役買ってるかもしれない」
「どうせ嘘なんだから、細かいこと気にすんな! てことですか?」
「うむ、ファンタジー宣言。まあ、それが正しい方向なのかどうかはわからないが……」
「ああところで、忍者はどうですか」
「……ああ」
「黒装束に黒覆面、ハンドスプリングを繰り返しながら攻めてくるニンジャ」

……あれは良くない嘘。外国のキタノ映画ファン向け。或いはヴェネチア映画祭向け」
「あとラストの台詞」
「モノローグオチだけは勘弁だよな」
「飛行機だけは勘弁なー」
 評価:【B+】

*1:奥さんが病気なのでお金がいる、というベタ設定。

*2:正確には、座頭市が金髪なのが嘘なのではなく、そのことに初対面でも全く言及しないまわりの人間が嘘である。つまりあの金髪は作中人物には見えていない、記号である。