グレッグ・イーガン『しあわせの理由』感想

しあわせの理由 (ハヤカワ文庫SF)

しあわせの理由 (ハヤカワ文庫SF)

 六月中旬の昼下がり、東京を出て逗子へと向かうJR横須賀線の普通車両。そこがグレッグ・イーガンと僕の最初の出会いの場となった。その日の面接会場は横浜で、片道一時間半以上、往復四時間近くも電車に揺られねばならず、その間の無聊を慰めるために持ってきたのが手に入れたばかりの短編集『しあわせの理由』だったのだが、読み始めて三十分、第一短編『適切な愛』を読み終えた時点で僕は本を閉じ、その日二度と開くことはなかった。つまらなかったのではない。あまりの面白さに知恵熱が出そうなくらい興奮してしまい、とても次の作品に移ることが出来なかったのだ。こんな経験は本当に久しぶりだった。しかもこれは、九つ収められた短編の一つ目に過ぎない――! たった40ページの短編を一つ読んだだけで、この本には【S】を出す準備が要る、と僕は考えていた。面接で何を喋ったんだか、そういや全然憶えてない。
 面白かった順に並べてみると、『道徳的ウイルス学者』=『適切な愛』=『しあわせの理由』<『愛撫』<『闇の中へ』<『移送夢』<『ボーダー・ガード』<『血をわけた姉妹』<『チェルノブイリの聖母』。どの作品でも、SF的な状況設定が文学的な問を発するための装置として機能している、という構造は(程度の差はあれ)共通していて、潔い。特にトップ3は凄かった。下位の作品にも必ず一つや二つは見るべきところがあって、決して駄作ではない。『打率九割、内二割はホームラン』と巻末で解説者は言っているが、どうやら伊達ではないようだ。
 
 評価:【S】【心】
 
 以下に各短編ごとの感想。
 ◆適切な愛
 「人間の心なんて所詮は脳内化学物質の創り出す幻」「愛情なんて存在しない」
 小学生やら中学生やらくらいの時分、そんなわかった風な口を利いてわかった風な気分になり出す我々ですが、現在と地続きの近未来に生きる、我々と地続きな主人公にこの問題を突きつけることで、とんでもなく切実な雰囲気が醸し出されています。ごめん、僕全くわかっちゃいなかった。わかった風な振りだけしてた。これが味わえるのはSFならではでしょう。本能さんが生み出す不適切な愛、それを乗り越えた人間はもう愛を感じない。しかしそれこそが真の人間、アダム・カドモンでないと誰が言えるのか。最後のパラグラフが格好良すぎる、泣ける。
 ◆闇の中へ
 『半減期十八分の放射性原子核と同じ確率で消滅するワームホールの吸入口』に突入し、人命救助にあたる"ランナー"たちの活躍を描くお話。吸入口の中心に安全地帯みたいなのがあるんですが、消滅時にそこにいないものはみんな死ぬことになります。おおこわ。
 突入後、「吸入口発生から十八分経過。存在確率は五十パーセント」「いや、現時点で吸入口は存在しているのだから、存在確率は百パーセントだ。今から十八分後の存在確率が五十パーセントなのであって……」云々、と考えてしまう主人公が可愛い。確率なんて、当事者にとっては何の役にも立たないのであった。闇に向かって走ることを人の生と重ねるならば、役に立たない確率論、でもそれ以外に寄る辺なし、というのも同様です。趣き深いね。
 ◆愛撫
 本格SFミステリ。未来の刑事が用いるツール類の一つ一つにわくわくできる、一級品エンタテイメント。こんな魅力的な設定を短編一つで使い捨てられては、勿体ないお化けも立つ瀬がない。
 ◆道徳的ウイルス学者
 これを読み終わったところで【S】が確定した。真に一流の作家はギャグも書ける。グルービィー。
 ◆移送夢
 最初はよくわからなかったのだが、背景設定が共通しているという長編『順列都市』のレビューを眺めてるうちに少しだけピンときた。死に行く肉体を捨て去り、精神のコピーをロボットに移送することで人間は永遠の生を獲得するが、それにしたって、『肉体に残された方の精神が死ぬことに変わりはない』。全く以って恐ろしい話だ。
 ◆ボーダー・ガード
 未来の市民が遊ぶ"量子サッカー"の描写が楽しい一編。だけどこれ、本筋に関係あるのかな……。
 ◆しあわせの理由
 表題作。「脳腫瘍で死にかけ、でも大量に分泌される幸福物質のおかげでしあわせ気分」→「腫瘍根治、でも幸福物質が効かなくなって鬱だ氏のう」と序盤から強烈な展開をかましてくれる。
 プロセスは違うが、最後に"ぼく"(萌えキャラ)が立たされる場所は『適切な愛』の奥さん(萌えキャラ)のそれと似ていて、その点では『適切な愛』の姉妹編と呼べそうな作品。ここまで壮絶な半生を送りながらもあくまで前向きな"ぼく"にうっかり惚れそうになるが、ではこの前向きさの由来はなんなのか、と考えるとやっぱり出口なしな気分になる。どうしろと言うんだ。