古典テニス学的見地による手塚ゾーン・ファントム解明

 承前(id:rindoh-r:20070812)。手塚ゾーン・ファントムに対する疑問点はここで共有できたと判断して、この疑問を解決する古典テニス学的仮説について述べていきましょう。

■はじめに 〜現象面における手塚ゾーン〜

 まずは以下の画像をご覧頂きたい。

 典型的な手塚ゾーン発動シーンである。手塚から見て右サイドに打たれた球が途中でその軌道を変え、手塚の右側 1 メートルあたりの打ちごろの位置に引き寄せられる。手塚はその場を動かず、引き寄せた打球をバックハンドで打ち返そうと構えている(手塚は左利きである)。
 では手塚から見て、左サイドに打たれた場合はどうか?

 ……ちょっと人が変わってしまったが、まあ樺地も左利きなので条件は同じだ。左サイドに打たれた球は、樺地(手塚)の左側 1 メートルほどに引き寄せられ、フォアハンドで打ち返される。
 これらは、手塚ゾーン発動時の代表的な光景である──と同時に、現象面における手塚ゾーンの全てでもあります。過去、手塚ゾーンがこれ以外の結果(例えば、右サイドに打たれた球が手塚の左サイドにまで移動した、など)を導いたことはないのです。手塚ゾーンには 2 パターンしかない。このことをまず、頭の片隅に入れておいてください。

■疑問 1 :なぜコーナーの打球をアウトにできないのか

 それでは第一の疑問、「なぜコーナーの打球をアウトにできないのか問題」について考えていきましょう。
 作中の記述をまとめると、手塚ゾーンの原理は以下のように説明されます。
  • 手塚には、次に“相手が打ち返すつもりの位置”が(おそらく誤差数十センチ以内で)読めている。
  • その上で、ボールに対して“相手が打ち返すつもりの位置”から“自分のカバー範囲”まで移動するような回転をあらかじめ掛けている。
  • ボールの移動距離に応じて腕に掛かる負担が増大するため、その距離には限界がある。

 この記述を信じる限り、「コーナーの打球をわずかに外へ動かしてアウトにする」ことは可能であると思われます。そして我々は上記の説明を信じ、証明せんとする者であります。
 つまり、冒頭の疑問はこのように言い換えられねばなりません。「コーナーに打たれた球をアウトにすることは今までにもできた。ならばなぜ、手塚はその手を使わなかったのか?」

■相手の気持ちになってみる / 未完成のファントムは使えて一度

 ではここで、コーナーに打った球を未完成の手塚ファントム(以下、弱ファントムと呼称)でアウトにされた場合、手塚の対戦相手はどのような反応をするか? ということを考えてみましょう。コーナー狙いの自分の打球が不可思議な変化によって強引にアウトにされてしまった、さあどうする! 唖然とする。まあそれはそうだ。しかしすぐに、センターに打つ、という対策を思いつき、試してみることでしょう。ご存知の通り、これまでの手塚にはセンターの打球を「4.2 メートル動かして」アウトにすることはできませんでした。手塚は弱ファントムを使わず返し、相手は愚直にセンター狙いをくり返す。つまり、弱ファントムによる強制アウトは、一回きりしか使えない奇襲技であることがわかります。

■センター返しはチャンスボール? / 手塚ゾーンの意外な弱点

 さて前項を読んで、相手がセンター狙いしかできなくなるんだったらそれはそれで良いじゃん、ゾーン使う手間が省けるし、と思った貴方。マンガ脳です。というのも、センターマーク上に立つ手塚にとって、センター狙いとは即ち体幹を狙われるということに他ならないからです。実際にテニスの経験がある方ならば理解が早いと思いますが、体幹狙いは意外に対処のしづらいものです。手塚としてはやはりゾーンを使い、1 メートルほど外側に向けて返球をずらさなくてはなりません。
 ここで思い出して欲しいのが、冒頭に示した二つの画像です。手塚ゾーンには 2 パターンしかない。そう、過去に、手塚が「外側に 1 メートルほどずらす」用途でゾーンを使った描写はないのです。ここに手塚ゾーンの意外な弱点が隠されているのではないか──、というのが我々の提示する仮説です。手塚は逃げていく球の対処に慣れていないのではないか。例えば、外に逃げる打球には継続してゾーンの回転を掛けるのが困難であるとか、そのような事情があるのではないか。

◆仮説例:
 手塚から見て右サイドに打たれた球が引き寄せられる場合、その打球はコート上空から見て時計回りの回転をしている。これを通常、手塚は自身の右側で、即ちバックハンドで処理している。左サイドから引き寄せる場合、その打球は反時計回りの回転をしており、これにはフォアハンドで対処している。
 一方、センターに打たれた打球を外側に──例えば右にずらした場合、その打球はコート上空から見て反時計回りの回転をしているが、これに対して手塚はバックハンドで対処しなくてはならない。つまり、通常とは逆向きの回転に対応しなくてはならない。この「通常とは逆向きの回転」が、継続してゾーンの回転を掛ける上で困難な要因になるのではないか?

 この仮定を元にすると、弱ファントムによる奇襲は一度きりしか通用しないばかりか、その後ゾーン・ファントムに共通する急所であるセンター狙いを誘発してしまう薮蛇行為である、ということが言えます。この状況を嫌うが故に、手塚は弱ファントムを封印していたのでしょう。むしろ「どんな球でも引き寄せる」ということを強調することで、「センター狙い」はますます思考の盲点になっていく。仮説の階段をもう一段重ねれば、そうやって相手の思考を縛ることこそが、手塚ゾーンの前提である「返球位置の先読み」を容易なものにしている、と言えるのかもしれません。「時には引き寄せ、時には弾く」といったゾーン・ファントム併用状態では、対戦相手が混乱し、逆に先読みがし難くなる。「どんな球でも引き寄せる」ゾーンのみの状態の方が、相手はムキになってコーナー攻めをくり返し、先読みも容易なものになる。そのような事情もあるのかもしれません。
 いずれにせよ、ここで必要な仮定は「手塚がセンター狙いを嫌う」、この一点です。この仮定さえ通れば疑問は解消します。引力や竜巻、果てはサイコキネシスなどを持ち出すよりも、よほど単純な仮定ではないでしょうか? 我々はオッカムを愛します!

■疑問 2 :なぜベースラインを割ってアウトにできないのか

 残るは「縦方向問題」、即ち「なぜベースラインを割ってアウトにすることはできないのか問題」ですが、こちらについてもほぼ同様の説明で解決できます。ベースラインぎりぎりに打たれた球を回転オーバーさせてアウトにすることはこれまでにもできたことでしょう。しかし一度それを実行してしまうと、今度相手は「ネット際狙い」を続けることになります。ネット際に落とされた球をカバー範囲まで引き寄せるとなると、これはかなり強力な回転が必要になります。一度や二度なら問題なくとも、連続して続けられれば腕に無視できない負担をかけることになるでしょう。このことから相手の思考を逸らすために、やはりアウトにはしない方が無難だと判断したのだと思われます。

■おわりに 〜手塚国光、その人間的魅力の発見〜

 以上で、古典テニス学的見地による手塚ゾーン・ファントムの解明は終了です。一つ単純な仮定を用いるだけで、「先読み」+「回転」という、従来通りの材料でその説明が可能であることが納得頂けたでしょうか。
 蛇足ながら述べさせてもらうと、この仮説の実にエキサイティングな点は、その過程で「手塚ゾーンは万能ではなかった」という結果が導き出されることにあります。そのあまりにあまりな無敵ぶりに、テニス神と称揚されて久しい手塚でしたが、その実わずかな弱点はあった。いやむしろ、そのわずかな弱点を糊塗するために、進んで『無敵』を振る舞っていた節がある。ここに初めて我々は、手塚の「人間らしさ」を認める次第です。「手塚国光は人間だった」。これを最大の発見として、この文章の結びとします。

■謝辞

 本稿のアイディアのほとんどは『ピアノ・ファイア』いずみの氏によるものです。私は論点を整理し、注釈を付け、文章化したに過ぎません。謝々!